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「新・雲呼荘 野田高梧記念蓼科シナリオ研究所 設立趣意書」より
                              
昭和26年、脚本家・野田高梧が蓼科に開いた「雲呼荘(うんこそう)」は、八畳ひと間に食堂兼台所、のちには風呂や別棟が建て増しされたとはいえ、野田自身の言葉を借りれば以下のような状態でスタートしました。

 茅屋、僅かに雨露を凌ぐに堪え、狭隘、漸く膝を容るゝに過ぎざれども、
 高原の風趣、気温の清和、以て都塵を避くるに足る。(「蓼科日記」第5巻)

この「茅屋」が、やがては小津安二郎を始めとする日本映画黄金期の映画人が集う広場(アゴラ)と化し、なによりも『東京暮色』(1957年)以降、小津作品最後の『秋刀魚の味』(62年)に至るまで、野田と小津の脚本執筆の仕事場となったことは、その悠然たる仕事ぶりと相まって既に伝説化しているといえるでしょう。

野田と小津は毎日のように蓼科の疎林を散策しながら、野田夫人・静(しず)の手料理で地元銘酒ダイヤ菊を酌み交わし、その間、営々と親方(マイスター)の熟練と落ち着きをもって数々の脚本を執筆していきました。

そして「親方たち」の求心力は、文字通り雲が雲を呼ぶように人を呼び、小さな山荘は人と人とが交わる広場となったばかりでなく、やがては周辺に山荘を持つ映画人が続々と現れて、さながら「蓼科映画村」的な様相を呈してゆくのは先年(2013年)刊行された『蓼科日記・抄』(「蓼科日記刊行会」編)に生き生きと記録されている通りです。

そこには、人が新しい何かを生み出すときに欠かせない「自由な議論」がありました。
また議論を痩せたものにしない「存分な遊び」がありました。
そして、なによりもそれらを可能にする、都会の気ぜわしさから自由な、自然と空気が――
つまりは、そこは良い風の吹いている場所でした。

平成2年、野田の死から22年後、雲呼荘はある会社に売却され、その後残念ながら解体されて、いまでは跡地にその会社の保養施設が建てられています。
売却は野田の長女・玲子の手によって行われ、しかしそれは雲呼荘のDNAを断ち切るものではなく、逆にそれを維持発展してゆくためのものでした。
というのも、玲子は夫の脚本家・山内久とともに、雲呼荘からほど近い夫妻自身の山荘の一角に、母つまり野田夫人・静が晩年を過ごすための離れを建てるのにその売却益をあてたからです。
そこは、いわば「第二の雲呼荘」とも呼ぶべき、野田と小津のDNAがたっぷりと遺された記念碑的な建物としていまに残ることとなりました。

静夫人は平成13年、満百歳の天寿をまっとうして逝去されましたが、残された山内山荘の離れには、先に触れた『蓼科日記』全十八巻を始めとして、野田が残した膨大な文物が保管されていました。

私たちは故山内久・玲子夫妻のご縁につながる者として図らずも雲呼荘の文物を引き継ぐこととなり、しかしこれは私たちが個人的に死蔵することは許されない映画史上の貴重な資料であると考えました。
そこで、このたび静さんが晩年を過ごされた離れをいわば「新・雲呼荘」として改修し、研究者や小津映画ファンに対して、野田高梧の資料を中心として公開・保存する『野田高梧記念蓼科シナリオ研究所』を開設することといたしました。

もし天国の野田さんや小津さんが「研究所」と名付けたと知れば、元来「道化の精神」をモットーとされたお二人、よせやい照れくさいとおっしゃるに違いありませんが、これは戦前、日本で初めてのシナリオ作家養成機関としての「松竹蒲田シナリオ研究所」を立ち上げ、初代日本シナリオ作家協会会長もつとめた野田高梧を記念する名付けでございます。
併せてこのたびの「新・雲呼荘」のオープンが、シナリオもしくは脚本家という存在の正当な「研究」が始まる契機ともなってほしい、という私たちの願いも込めたつもりでいるところです。

公開を予定している資料としましては、『蓼科日記』原本や、野田高梧の脚本、その生原稿、長女玲子による清書原稿、野田の蔵書、また野田自身が撮った小津その他当時の映画人や蓼科の風景が写っているスライドや8ミリフィルム等です。

併せて、ゆくゆくは野田の資料ばかりでなく、戦後の父の作品のすべて、つまりは『晩春』以降の小津作品すべてを含む野田の全原稿を清書した脚本家・故山内玲子(筆名立原りゅう)と、2015年9月、残念ながら90歳で亡くなった夫君・山内久の資料も保存・公開し、シナリオ研究施設としての充実を図ってゆきたいとも考えているところです。

場所は、現在蓼科プール平に移築されている小津の山荘『無藝荘』から始まる「小津の散歩道」をゆるゆると上がること約10分、ささやかな「街角のミュージアム」ならぬ「山の中のミュージアム」ですが、野田や小津が愛した蓼科の山や雲、そして林を通る風は変わりません。

これにより、内外の研究者に野田の一次資料に接する機会を提供できるようになりますことはもちろん、小津映画の源に触れたいという気持ちで蓼科を訪れる多くの観光客の方々にとっても、『無藝荘』と『新・雲呼荘』と、二つのスポットが待つ「小津の散歩道」は、たのしく散策するうちに、小津映画のみならず、「脚本」と「演出」と、映画表現を支える二つの大きな柱についての理解も深まってゆく、いままでにも増して興味深くたのしい散歩道となるものと確信しています。



2016年7月吉日

一般社団法人・野田高梧記念蓼科シナリオ研究所 代表理事 山内美智子 


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