明治26年 (1893)
11月19日、父・鷹雄(45)、母・勢似(37)の五男、末子として函館市に生まれる。
鷹雄は当時、函館税関長。きょうだいは兄四人、姉二人。
明治29年 (1896)
三歳
父の長崎税関長転任に伴い長崎に移る。小学生の頃、父に連れられて初めての活動写真『月世界旅行』『ロンドンの大火』を見る。
明治37年 (1904)
十歳
父鷹雄が突然官職を辞し、姉の縁で名古屋に移り住み恩給生活に入る。それに伴い名古屋の小学校に転校。
明治41年 (1908)
十四歳
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十五歳
菅原小学校高等二年を修了、県立愛知一中に入学。スプリンターとして鳴らす。
同級に後に脚本家となるきっかけをつくった小田喬がいたが小田は中退、東京の中学に転校。
母が芝居好きだったため、家では映画・芝居見物は公認だったが、学校ではご法度で停学処分七回。
五年生になる頃、仲間と同人誌をつくり「文章世界」などに投稿、幾度か入選して文科志望となる。
大正2年 (1913)
十九歳
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二十二歳
早稲田大学英文科入学、巣鴨の長兄宅から通学。
まだ「活動」よりも芝居好きで、もっぱら市村座に通う。
ギリシア劇を専攻するが、卒業論文は「芭蕉」。
大正6年 (1917)
二十三歳
早稲田大学卒業後、雑誌記者となり「飛行少年」「活動画報」「活動倶楽部」「活動評論」などを転々、傍ら緑川春之助のペンネームで映画批評を書く。
大正7年 (1918)
二十四歳
父母の上京に伴い、小石川第六天町に同居。
大正9年 (1920)
二十六歳
父鷹雄、直腸癌のため死去(七十二歳)。
大正10年 (1921)
二十七歳
義兄・小暮理太郎(日本山岳会第三代会長)の勧めで、定収入を得るべく東京市役所市史編纂室に入る。
六月、会社員・山田源一、ための長女・静(19歳)と結婚。
大正11年 (1922)
二十八歳
八月、長女・玲子出生。
大正12年 (1923)
二十九歳
九月、関東大震災。
暮に、先に松竹蒲田脚本部に入っていた小田喬に誘われて、撮影所長の野村芳亭と会い、試作シナリオ『櫛』を書く。
大正13年 (1924)
三十歳
一月、松竹蒲田脚本部に正式入社。月給百円。
最初の仕事は、広津柳郎「骨ぬすみ」の脚色。
五月、次女・陽子出生。
七月、所長、城戸四郎に代わる。
大正14年 (1925)
三十一歳
春、城戸の了解を得て、一時松竹を退社し、聯合映画芸術協会に移り、早稲田以来の親友高田保演出の『水の影』を手伝う。暮、松竹に戻る。
昭和2年 (1927)
三十三歳
蒲田矢口小林に転居。
小津安二郎の監督昇進第一作『懺悔の刃』を書く。
昭和3年 (1928)
三十四歳
城戸と話らって松竹蒲田脚本研究所を開く。
蒲田女塚に転居。
昭和4年 (1929)
三十五歳
この頃、従来のメロドラマ調から脱すべく小津、五所らと話しているうちに探りあてたのが「会社員もの」であり、これが蒲田調と言われる小市民映画として根づいていく。
昭和5年 (1930)
三十六歳
九月、母勢以、外科手術の出血で死去(七十四歳)
昭和6年 (1931)
三十七歳
『東京の合唱』執筆。蒲田蓮沼に転居。
昭和8年 (1933)
三十九歳
東京に移転した長兄夫婦と品川区大井林町に同居。
昭和10年 (1935)
四十一歳
都新聞に小説『麗人社交場』連載。この年から翌年にかけて脚本部長となる。
昭和11年 (1936)
四十二歳
撮影所、大船に移転。町工場の多い蒲田では「トーキー」の製作には向かないという理由であった。
十一月、各社の脚本家が集い、シナリオライター協会を創立、初代会長に推される。
鎌倉雪の下に転居するが、半年で同、浄明寺に移る。ここが終生の住処となる。
昭和13年 (1938)
四十四歳
『愛染かつら』が予想外の大当たりをとる。
昭和14年 (1939)
四十五歳
映画法施行、政府による映画統制が強化される。
昭和15年 (1940)
四十六歳
内務省による脚本の事前検閲が始まる。
『西住戦車長傳』シナリオ執筆のため、原作者菊池寛らとともに中支をまわる。
昭和16年 (1941)
四十七歳
十二月、太平洋戦争勃発。
昭和9年頃から始まった早稲田映画科の講義ノートを少しずつまとめはじめる。
昭和19年 (1944)
五十歳
映画の製作本数激減。もっぱら読書に明け暮れる。
昭和20年 (1945)
五十一歳
大井の長兄宅に置いたままの蔵書、空襲で焼失。
八月、終戦。
十一月、松竹大船撮影所従業員組合結成。担がれて二十一年四月まで委員長を務める。
年末の団体交渉で城戸四郎と対立。
昭和21年 (1946)
五十二歳
小川帰正の尽力で六月より創刊した同人誌「シナリオ」に「シナリオ方法論」の連載を始める。
九月、松竹の体制変更に伴い退社。契約関係を結ぶ。
昭和22年 (1947)
五十三歳
九月、戦時中解散させられていたシナリオ作家協会再結成。会長に選任される。
終戦前後より持病の胃潰瘍悪化。
この頃、日大芸術科の客員教授となるも、一、二年で辞める。
昭和23年 (1948)
五十四歳
十月、「シナリオ方法論」をまとめ、シナリオ社より出版。
昭和24年 (1949)
五十五歳
戦後の小津との連作第一作『晩春』執筆。
以後『東京物語』まで、湘南・茅ヶ崎館に三〜四か月合宿してシナリオ執筆。
昭和25年 (1950)
五十六歳
一月、シナリオ作家協会、社団法人となり、引き続き会長に推される。
十一月より「続・シナリオ方法論」を「シナリオ」誌に連載。
この秋、次女・陽子が突然カトリック修道院に出家、衝撃を受ける。
昭和26年 (1951)
五十七歳
『麦秋』執筆。
7月18日、兄・道三(号・九浦)に連れられ、長女・玲子を伴って初めて蓼科に来る。
道三から山荘を譲り受ける。以後、来訪者が自由に書き込む「蓼科日記」が始まる。
昭和27年 (1952)
五十八歳
以後、妻・静や鎌倉の青年たちとしばしば蓼科を訪れる。
十月、「シナリオ方法論」に「続・シナリオ方法論」の一部を加え、『シナリオ構造論』として宝文館より出版。
昭和28年 (1953)
五十九歳
『東京物語』執筆。
昭和29年 (1954)
六十歳
一月、長女・玲子、脚本家・山内久と結婚。
8月18日、野田と静、江原望に伴われて小津安二郎、初めて蓼科に来る。
「蓼科日記」のノートを新調し、冒頭に「この山荘を訪れた方は必ずなにかお書きください」
と書き、以後小津らの書き込みが始まる。「日本映画脚本史」を書き始める。
昭和31年 (1956)
六十二歳
蓼科にもよく遊びに来た鎌倉のハイキンググループの青年男女をモデルに『早春』執筆。
昭和32年 (1957)
六十三歳
この頃、8ミリカメラで盛んに蓼科風景等を撮る。
蓼科の散歩中に見つけた片倉製糸の別荘を仕事部屋に借り、『東京暮色』以降は小津とともに夏・冬問わず蓼科で仕事をするようになる。
昭和33年 (1958)
六十四歳
『彼岸花』執筆。
十一月、神奈川文化賞を受ける。
昭和34年 (1959)
六十五歳
『お早よう』執筆。
『浮草』執筆。
昭和35年 (1960)
六十六歳
『秋日和』執筆。
十一月、紫綬褒章を受ける。
昭和36年 (1961)
六十七歳
三月、小津とともに芸術選奨文部大臣賞を受ける。
『小早川家の秋』執筆。
昭和37年 (1962)
六十八歳
『秋刀魚の味』執筆。
昭和38年 (1963)
六十九歳
12月12日、小津の死に遭う。
昭和41年 (1966)
七十二歳
ドラマ『焚火のけむり』でTVドラマに翼を拡げる。
昭和42年 (1967)
七十三歳
四月、勲四等旭日小綬章を受ける。
昭和43年 (1968)
七十四歳
9月23日午前五時二十分、蓼科・雲呼荘で急性心筋梗塞のため死去。
9月26日、鎌倉円覚寺でシナリオ作家協会葬。
戒名、真如院高梧清風居士。
また次女陽子の希望で死後受洗。霊名ヨゼフ。