「麥秋」執筆日記

題名:「麥秋」執筆日記

ご覧になりたい方は、上をクリックしてください。

翻刻  宮本明子
校閲・解説  渡辺千明



『麦秋』脱稿を記す四月六日の項。「完成」の文字に赤字で囲みがあるが、
 野田の手になるものかどうかは不明。
                 〇


1993年に『全日記 小津安二郎』を編纂・出版された故・田中眞澄氏は、「小津日記」出版の目的について以下のように記されている。
「本書は、小津安二郎(一九〇三 - 一九六三)が生前に書き残した日記のうち、現存するすべてを公開し、この世界にも類稀なる映画作家に対する、将来の新たな研究の進展に寄与することを、第一義的な意図として提供される」
この『野田日記 全編公開』の目的とするところも全く同じである。もしもこの資料に触れた研究者がそこからなんらかの触発を受け、新たな視点・論点を発見したとすれば、それはまことに幸福な出来事になるだろうと考えている。

ただし、それは以下の点において、ある種の「危険さ」をはらんだ資料だということもここで言っておかなければならないだろう。
すなわち、野田の日記は、小津とともに主に湘南・茅ヶ崎館に籠ったときの日記で、それは取りも直さず「小津映画」が真っ白な画布から立ち上がってくる、まさに「生成」そのものを記録している文書であるということである。
そこでは、野田や小津からの発想はもちろんとして、例えば同じ旅館に入っていた脚本家・斎藤良輔がヒントを与えたり、近くに住む監督・清水宏の意見が入っていたり、果ては人物の設定に関して、遊びに来ていた「野田の中学時代の同級生」のアイデアが入っていたりと、さまざまな人の考えが混ざっていることは前回書いた通りである。
しかし、もちろん野田と小津は話の根幹をゆるがせにはせず、常に「物語」が目指してゆく最終局面を見誤らなかったのであるが、この「他人の意見」の混入を「不純」と見るか「二人の懐の広さ」と見るかは論じる人にもよるだろう。
ただ例えば1983年に『監督 小津安二郎』を出版され、小津映画を主に「説話論的な次元」と「主題論的な次元」について論じ、しばしばその融合に我々を導いて圧倒される思いにさせた批評家・蓮實重彦氏の論理は、それ自体で既に破綻していると言わざるを得ないだろう。
なぜなら、この日記で明らかなように、脚本の「説話論的な次元」のほとんどを提供している野田について、その書物ではたった二度の言及しかなく(P.86、P172)、その上、野田の思想や人物への言及もない、つまり関心がないからである。
これは、映画作品を見つめるとき、その脚本に関心がないと言っていると同じで、私はそれを致命的と思う。
映画とは、野田・小津に限らず言葉の最も正確な意味での「共同作業」なのであり、野田と小津は「シナリオ」においても、その方法を選んだということである。
「小津映画」とは基本的にそうした「複眼の思考」に支えられているのであり、その視点がなければ、なぜ小津はあれほど「娘の嫁入り」ばかり撮ったのか、なぜたまにそこから反発するかのように違う主題を撮ったのか、そして多くの場合、なぜそれが「失敗」したのか……等々への「解」は出て来ないだろう。
その意味では、上記の本の15年前の出版になる、ドナルド・リチー『小津安二郎の美学』(1978年)が、序章に次ぐ「第一章」で「脚本」の項目を立て、多くのページを割いているのは「小津映画」を論じるスタンスとして正しい。

私の思いは、まず「野田・小津作品」として共同執筆された「小津映画」を、
その後の時代が否応もなく押し進めた小津の「神格化」に惑わされることなく、その輝かしい成果も、また迷いの中での「失敗」も含め、正当に見たいという以上でも以下でもない。
それは野田についても同様である。
野田、小津のコンビも、こんな共同作業(頭脳の共有)があるのかと感嘆するときも多いが、しかし二人の「芸術家」=アーティストの関係はいつも和やかなだけではない。

この「野田日記」掲載は、当面、次回の『“晩春”執筆日記』で、“紀子三部作日記”として完結する計画だが、今度はやや詳しい「解題」を添えるつもりで、いまの段階でそれがいつ出来上がるかを見通せず、また全編厳密な「校閲」を付した上でと考えているので、ここでその時期を明言できないことをお詫びします。
なお、上に書いた、「ある種の危険をはらんだ資料でもある」、といういい方は、従来の「小津論」の更新が必要となるかもしれないという意味と、上記のようにやや論争的な部分をはらんでいるという意味でもある。

  
                             (渡辺千明)